2022年6月17日
忘れることも出来ない平成25年9月10日 牡蠣にあたって緊急入院と成り、初めて救急車にて昭和医大に運ばれてから、①心臓バイパス手術 ②大動脈瘤切除手術 ③S字結腸教唆手術 ④心臓カテーテル手術 ⑤大腸切除手術 ⑥左大腿骨転子部骨折手術 ⑦胃癌にて胃切除手術 ⑧大腸癒着手術と8年の間に8回に及ぶ大手術を繰り返して 今尚 生きていることには、自身もビックリするこの頃であります。 この間は、横浜市北部昭和大学病院に大変お世話に成り、病院側もまた手術ですか…と言われるほど、お得意様に成ってしまいました。 最近の状況は大腿骨骨折以来、足が悪くなって歩行が困難と成り、不自由を余儀なくしておりますが、いまではクルマの運転も禁止されているために家内の送り迎えで会社に出て居ります。
85歳で完全に引退と言い乍らも、ボケ防止のために、会社に来ている現況では有りますが、社員が頑張っている姿を見る事が何よりも楽しみであり、嬉しいかぎりであります。 また、それによって私自身の生活感や思考感も異なって、新たに長生きをする術を教えて貰らってます。
人とは強欲なもので、いつ死んでもいいと思いつつも、会社が日毎に業績が伸びて行く姿を見るにつけ、心から微笑みを浮かべて内心悦びで一杯です。
これからは、いつ死んでもいいという後向な考えは捨てて、何か役に立つことが出来ないかと前向きな思考をするように努めて参りたいと存じます。
昨日、週一で通っているリハビリの先生の付き添いで、5年ぶりにゴルフ練習場に行って40球ほど打ちました。 腰が痛くて不安では有りましたが、根っからの好きなこと故に少々な痛みは我慢したのです。 これが続くようなら本年度中に、本コースにてプレーが出来るのではないかとホクホクしております。
家内はじめ大勢の人にお世話に成りながら、人は生きる事、活きねば何もできない事を教えられました。 今日もわがまま言いながら生きていきます。
2016年10月12日
忘れもしない 平成25年4月28日 東日本大震災の特需で苦労をかけた社員全員を明日からはじまる大型連休の前日に「ごくろうさん」として食事会を催し、和気あいあいと楽しんだあとに私は生牡蠣にあたって激しい腹痛を起し、急遽、昭和大学横浜市北部病院に救急車で運ばれました。
結果「擬似肺炎」と診断されましたが、それよりも驚いたことに精密検査の結果により大変大きな「大動脈瘤」が見つかり、即刻、手術を要すると伝えられました。手術前に行う精密検査の結果は、心臓が大分弱っており、このまま「大動脈瘤」の手術を実行することは危険すぎるとの医師の診断でありました。心臓に関するあらゆる検査を再度実行し、体調を整えて手術に及ぶ事となりました。
平成25年9月10日12人の先生方スタッフによる11時間に及ぶ「心臓バイパス手術」が無事終了したのであります。 担当医の先生は手術前には50%の確率と言っておりましたが、医師チーム先生方の奮闘の結果98%の確率となり、再度、心臓で苦しむ事は心配無いと言われました。
そのあとに控える「大動脈瘤の手術」は、平成26年5月13日に行いましたが、予定時間の11時間を過ぎても終わらず13時間が経過したのであります。 この手術は、13名のスタッフの先生方が長時間に亘り変形していた動脈瘤の切り放しに時間が掛り大変難しい手術であったと言われました。よくぞ無事終了できたと先生方の悦びも一入でした。
この度、短期間で2度に亘る大手術を行うにあたり私の命もこれまでか…と、覚悟しましたが、今日もまた会社に出られることが可能となり、これぞ、神様に活かされているものと深く感謝して、何事にも出来ることは精一杯やることにしております。
このところ常に想うことは、難もなく会社が継続できることを切に願い、社長はじめ、社員の皆さんが自信を持って仕事に邁進して呉れることを願うばかりです。今回の手術で、家族をはじめ、会社の人達、友人、取引先、関係者の方々にも大変な心配を掛けしてしまい、唯々、その申し訳なさと有難さに頭の下がる想いで一杯です。
人が生きるためには、諸々の大きな関わりが天地ではたらき、大きなうねりの中に活かされているものだな…と、日々感じる今日この頃です。
神様に感謝、多くの人に感謝、何事にも感謝して、よって、自身生きていくことのへの感謝は、絶対に忘れ得る事はでき得ません。
すべのものに心から感謝して。
2012年4月10日
昨年の10月 友人4人と2泊で水上高原ホテルにゴルフ旅行を楽しみました。温泉や食事は申し分なき逸品であり、これらに大変堪能致しましたが、メーンのゴルフは散々でありました。
当日、私の体重は84.5キロ 血圧は165 と私の体格からすると大変な太りすぎで、歩くのがヤットといった感じでコースをプレーして歩くどころではありませんでした。 この様な状態を続ける事は決して芳しい事ではなく、掛かり付け医の先生から「村野さんあなたは死ぬぜ、ガンなら手術をすれば70%は治るが、心臓はそうはいかない…、こんな状況でゴルフなんてトンデモナイ…」と真剣な顔で叱られました。以来、人間我慢することと、なにごとにも努力せねば、目標の達成をすることができないのだと、一念発起してダイエットに取り組みました。
本日、満75歳の誕生日を迎え5ヶ月前を思い出してその経緯を考えてみました。本日、朝の体重は74.5キロ ダイエットに取り組んで5ヶ月間、よくぞ10キロの減量を為しえたものと己を誉めてあげました。
因みに、毎日の食事を紹介すると、朝起きてすぐコップ一杯の冷たい牛乳を飲み、20分以後に朝食とします。はじめにヨークルト(無糖)を食べ、フルーツをつまみます。中皿一杯にサラダ菜を乗せポン酢で食べ、茶碗半分のごはんに味噌汁とハム・ソーセージで食しながら黒ウーロン茶を飲みます。食べ終わったらトマトジュースをコップ一杯飲み、出がけにヤクルトを飲むこと習慣として大好きな味噌汁掛けごはんを完全にやめました。お陰で10キロの減量でゴルフができます。75歳の誕生日に
2011年9月26日
人は、永い人生の中で、そうそう節目となる出来事は訪れるものではないと思います。このたびの関東東北大震災で日本中の人々を悲しみのどん底に陥れた大地震や大津波、それに併せて原子力発電所の破壊事故が思っても見ない大震災となり、6ヶ月を過ぎた今も復興ままならぬ時が過ぎております。不幸にして大震災に遭われた多くの方々には、心からお見舞い申し上げます。一日も早く復興されます事を心から祈っております。
当社は、設立以来小型リフトの専門メーカーとして、あらゆる分野の小型リフトを制作して世に出して参りましたが、一昨年から太陽光パネル専用揚げリフトを開発し、新製品<ソーラーリフト>として発売にふみきりました。このたびの原発事故から生じた電力不足は、社会問題として大きな波紋を呼び不足する電力を補う為の太陽光発電システムが大変な脚光を浴びて一般家庭の隅々まで浸透する運びに成って参りました。
昔から「新製品開発」は、千に三つしか当たらないと言われて参りましたが<新製品>ソーラーリフトは、「天と地と人の心」に通じた製品として今や大変な人気を呼び全国各地の工事業者の方々には、絶対に必要なリフトとしてご使用いただいております。また、ソーラーリフトをお買い上げ頂いた方達もソーラー工事以外にも、震災復興の一端として破壊された住宅の補修工事にもご使用頂き大いに役立つリフトとして賛辞をいただいております。当社も、日本の復興の為に、そして、自然エネルギーの更なる成長の為にもますます切磋琢磨して、復興に尽したく存じております。
2010年12月22日
昭和12年3月東京渋谷で生まれた私は、幼少の頃より身体が弱く、兄弟と一緒に生活することが難しくなり、母方の故郷である信州伊那町の祖父母に預けられました。からだは弱くても気の強さは人一倍であり、小柄ながら大変な乱暴者でもありました。喧嘩は飯より好きのタイプで、近所の子供達や同級生もみんな私の子分としてすべての者が私の言うなりでありました。
あるとき(中学2年)町の開墾地に美味しい苺が栽培されているのを知り、子分10名を連れてビク(竹で編んだかご)を持たせ、夜半にかけて苺を穫りに行きました。苺畑は、波を打ったように50センチ間隔で凸凹のうねりがあり、低い部分に子分一人づつを腹這いに寝かせて、這いながらビクに苺を採り入れながら隅まで這って行かせました。 10人全員の収穫量は大変なものであり、自分たちだけで食べ切れるものでなく、各自に家に持って帰らせました。この様なことは盗人のすることで、子供ながら承知しておりましたが、何とも言えないスリルがまことに面白く、子供ながら全員が胸をワクワクしたものでした。当然、泥棒よけに犬を飼っておりましたが、その犬を手なずけるのが私の役目で、犬との相性は抜群でした。
ある日、鯉のうま煮と鯉こくを食べたい…と、皆にせがまれ鯉を捕りに行くことになりました。鯉と言っても天竜川で簡単に釣れるわけが無く、さて、どうするか考えた末に、女学校のプールに放し飼いをしている鯉を思い出したのです。いくら学校のプールでも昼間から釣り糸を垂れたらすぐに見つかってしまうので、別の方法で採ることにしました。プールの深さを測ったら底から1メートルくらいが水面のため、学校の暖房用の薪(まき)置き場に行かせ、6本ほど手軽な薪を持ってこさせました。90センチの長さに頑丈なテグスを合わせ針の先には大きなミミズを付けてプールに投げ込みました。 驚いたことに、ものの5分も経たずに投げ込んだ薪が大きく動き出しました。 鯉が餌を食ったのです。 針が引掛かって薪がうごいても、薪が重いために沈むことができず、プール内をあちこち泳ぎ廻り、疲れ果てたのち隅の方に寄って来たところを手づかみで薪を引き揚げました。何と50センチ以上の鯉ばかりでした。皆と一緒に料理して食べましたが、3匹ほど食べればお腹が一杯になり、残りは川魚屋に買って貰いました。買って貰ったお金は、皆の者の小遣いにしたのです。子供の頃で食糧事情の悪い時期とは申せ、今考えてみますとこの様ないたずらは許されるべき事ではなく、ただ、ただ申し訳ない所行と頭が下がる想いであります。今想えば、60年前の出来事として懐かしくもあります。では、またの機会に。
2010年11月15日
千葉に住む皆さん、中京地区の皆さん、11月6日7日は興奮のあまり眠れなかったと思います。両チームのファンでない私もテレビに釘付けで、両者の健闘ぶりにはワクワクして観戦しておりました。
名古屋に帰ったら絶対に強い…と評判のドラゴンズも、この日ばかりは気負いが目立ち、あと一点がとれず、焦りに変わってしまいました。追い込まれて観る中日ドラゴンズの応援隊は、悲壮感が漂う必死な姿が目に映り、なんとか勝たしてあげたい気分でした。しかしながら、ロッテの応援隊はチャンスの時もピンチの時も、全員が気負うことなく整然と声を一つにして発する応援歌は、真に素晴らしい光景でありました。
これこそが選手を信頼した監督の采配と、お互いを信じ合う選手同士の絆であったと深く感服した次第であります。 7戦目は絶対に中日の勝ちと信じた私も、ロッテの最後まで諦めない精神力には、「和」の一字をもって結束した雄姿の雄叫びさえも感じたのであります。
永いこと巨人ファンの私も、この素晴らしい戦いの後には言葉はいりません。皆さん本当にご苦労さま。本当にお疲れ様…と、心から申し上げたい。
2010年5月6日
人は誰でも歳をとる。 当たり前のことですが忘れてしまう。私も3月26日で73歳の誕生日をむかえました。思い起こしますと、いろいろの出来事が走馬燈のように、次から次へと思い出され ます。現状のありかたを見るにつけ、いったい私は何をして来たのだろうか…と、多くを考えさせられます。気がつけば、いまだ己の境地をつかむ事もなく、さまよう我が身がおかしくもあり、悲しくもあります。
昨年10月 長男の専務に社長職を譲り、相談役として一線から退きましたが、まだまだやる事が有るのには、大いに幸せを感じます。孔子いわく、我「七十にして心の欲するところに従いて,矩をこえず」 と解かれております。
私も家内と二人の娘を愛し、長男の家族を大事にし、嫁いだ娘夫婦と 仲良くし、娘と可愛いい孫と一緒にゴルフの出来る歓びを、大いに 謳歌したいと思っております。
反面、男として生まれ、後世に残る仕事をするためには、常にチャレンジすることを忘れずに、己を戒めて、これから先もどんな苦労が 有ろうとも決してひるまず、正々堂々と立ち向かっていく覚悟です。また、天から授かったソーラーリフトは、CO2削減に大きな役割を 果たす製品として、全国に広く推奨する事を義務と考えております。「老いてはますます盛んなり」を地で行くよう頑張って参ります。
2009年10月15日
いまから46年前の昭和38年、瓦を揚げる機械が初めてこの世に誕生しました。当時は家の棟上げを済ませ瓦を揚げる段階になると、親戚や友人知人が集まり、下からハシゴを伝わって屋根上まで大勢の人が手渡しで瓦を揚げたものでした。それは壮観と言うべきか大変な騒ぎで、新しい家造りに福の神を招くための大イベントでもありました。この様な時期に瓦揚げ機など造っても売れるわけがありません。しかし、時代は大きく進化しておりました。
当時は、翌年に控えた「東京オリンピック」の開催で景気は上昇し、人の心に安らぎと労力の軽減が叫ばれた時でもあり、人海戦術を主とした産業に機械化の流れが息づいて参った時代でもありました。なかでも1970年の大阪万博は、産業界の活性化が定着し、瓦揚げ機も最高の売れ行きを示しました。
以来40年、全国の瓦店には最低で一社に3台を保有し、大きい工事店では一社で30台以上が日々の瓦揚げに活躍したものでした。当社も、瓦揚げ機のメーカーとして毎年更新による販売台数で充分に需給のバランスを保って参りましたが、ここ数年、住宅業界の不振から一般住宅の新築が減少の一途を余儀なくし、瓦業界も不振の状況に突入致しました。
姉歯建築士の偽装問題が、確認申請の遅延と厳格さを招き、一般住宅にも浸透して屋根業界全般は日が落ちる状況となり、ますます不振をかこったのであります。その上、昨年の世界同時不況が追い打ちを掛け、業界の沈みに併せて瓦揚げ機など数えるほどしか売れませんでした。「人間万事塞翁が馬、禍福はあざなえる縄のごとし」と言われるように、世の中よくしたもので悪いことばかりではありませんでした。昨年から政府指導による太陽光発電パネル揚げには、瓦揚げ機が大変な役割を担い、無くては成らないソーラーパネル専用の簡易リフトとして、生まれ変わったのであります。
瓦揚げ機を造って40数年、屋根上に揚げるノウハウは充分すぎるほど持ち合わせ、太陽光発電パネルを屋根上に揚げるために欠かすことの出来ない安全性と効率化を充分に備えた製品であると認めていただいたのであります。 「安い価格」をテーマに発売された他メーカーの製品は、安価を売り物にしており万全とは思えません。 当社も永年のノウハウを駆使し安全性と使いやすさを目標にした、新型ソーラーリフトを制作中であります。 現時点では、全国に一割にも満たない普及台数でありますが、多くの工事関係者の方々に安心してご使用いただけるソーラーリフトの誕生として、精一杯よき製品造りに邁進している昨今であります。
これも総て、瓦揚げ機のお陰であり、瓦揚げ機があってこそと深く感謝するこの頃であります。「新」ソーラーリフトが次世代に役立つ製品であり、エコの時代に沿った簡易リフトとして、大いに社会貢献が出来得ることを信じてやみません。
2009年10月5日
久しぶりに専務に勧められ、若かかりし頃の痛い思い出を記して見ました。
昭和46年、大阪万博で賑わった翌年も万博景気のあおりを受けて、当社の製品も売れに売れた年でありました。
全国から当社代理店の方々を一堂に集めて代理店会議を開催する事となり、当時、温泉地で有名な熱海アカオホテルに集合致しました。北は宮城県の方、南は九州までの代理店の方々が50数社集まって頂き、夕刻6時まで販売会議と共に優良代理店の表彰式を行ったのであります。その後は、恒例の宴席となり、芸者衆10名でドンチャン騒ぎとなり、それはそれは大変な宴席と成りました。熱海アカオホテルは熱海城の真下にあたる岸壁の上で熱海随一と言われる眺望と設備を備えたホテルであり、またの名を不夜城と言われた素晴らしいホテルでした。
ホテル内の飲み処や食事処は無数にあり、麻雀室から映写室まで揃えてありましたが、当時はカラオケなどの設備は有りませんでした。 宴会終了後、招待客はそれぞれ気の合う同志で二次会に出向き、飲めや歌えやで朝の来たのを知らない状況でした。翌朝、朝食の時間が来てもほとんどの客は顔を見せませんでした。朝まで奮闘したために起きられなかったのが現実でした。幹事として支払を済ますためフロントに出向き、提示された金額でビックリ致しました。
当社社員の6名含めて総勢56名の宴会、一人当たり4万円の目標金額で250万円+100万円の予備費を含めた総額350万円を持参したのであります。ところが、宿泊宴会費170万円、芸者花代200万円、二次会費用15席で130万円、麻雀・夜食代で5万円、税金含めて計580万円の請求でありました。余りの予算違いに仰天し、どうしてそれほど掛かったのか尋ねましたところ、10名の芸者が朝まで客と付き合い(飲み処、麻雀、しんねこ)等、そのための花代が4倍に跳ね上がっていたのであります。不足分は会社に戻り送金したのですが、幹事として当時の社長に大目玉を食ったことは否めません。大変な目算違いに今尚忘れることは出来ません。
不夜城と言われる所以を、初めて知らされた思いでしたが、それは素晴らしいホテルであった事には間違い有りません。以後、翌年からは、代理店会議並びにご招待を海外旅行に切り替えたので有ります。今でこそ沈静化した熱海では有りますが、当時の熱海温泉は街道きっての歓楽街であり、接待には最高の温泉地で有りました。 きっと、招待客も充分に熱海の夜を過ごせた事と存じ、当時の思い出の一端を記してみました。
2009年6月18日
平成21年6月5日、夕刻9時、仲良し三人組で仲間のクルマに乗り込み横浜を出発しました。出がけには雨が降るいやらしい天候でしたが、御殿場を過ぎた頃より雨も止み、快適な走りでした。友人にとって初めての道筋ゆえに神経を使いつつも天理インターを降りてからは、カーナビが着いていながら随分と迷いました。(都市計画で道路が大幅に変更)
高野口からの登山口は、曲がりカーブが多く神経を使う山道でしたが、目的の高野山<一の橋>まで朝5時に辿り着くことが出来ました。三人それぞれが想いを込めた弘法大師の奥の院に向けて参道をゆっくりと歩き始め、参道の右・左に並び立つ有名大名の墓標を見るにつけ、大変な感動を心に納め静かに足を進めたのが午前五時過ぎでした。早朝のために私たちだけで見事な杉林の中を歩くうちに、奥州仙台伊達政宗のお墓や加賀前田利家のお墓、太閤秀吉のお墓、毛利元就のお墓、100を超える素晴らしい大名家のお墓があちらこちらに点在し、その威容たるやまことに素晴らしいものでありました。よくぞ、この高い山上にこれほどな素晴らしいお墓を立てたものと、当時の権力者の資力と祖先を拝する気持ちの大きさに改めて驚かされました。時代の寵児と言われました織田信長のお墓もあり、そばに明智光秀もあり石田三成のお墓も近辺に有る事には驚きました。
人も通らない早朝の中、500年を経過したと思われる杉の大木に囲まれながら多くの武将のお墓を見るにつけ、現代の混沌とした世相がなんとも物寂しく、心の狭さを痛いほど感じずには居られませんでした。高野山は静寂にして厳かな聖地であり、今を住む私たちに多くの欠けた何かを語りかけて呉れている気がするのであります。大変印象に残るお墓は、二代将軍秀忠公の正妻であり三代将軍家光公の生母でもあります「お江の方」様の墓標でした。高さ6.5m幅2.5mの墓標は高野山随一の最高の大きさであり、素晴らしくも威厳のあるお墓でした。
名残惜しくも、時間の都合でお昼には高野山を下り東京方面に少しでも近くまでとクルマを走らせましたが、一晩中走らせた睡眠不足のため、三谷温泉に宿泊することに成りました。宿泊した「ホテル明山荘」は多くのホテルの中で一番大きく、海辺の高台に位置するホテルで有りました。突然の宿泊で4軒も断られた後ゆえに、ホットした気分でお世話になることにいたしました。10階の見晴らしの良い部屋のため、お値段は勉強出来ませんが宜しいですか…の問いに、当方の予算より安かったのでお世話になることに致しました。驚いたことに、従業員の一人一人が礼儀正しく、心ゆくまでの心遣いには大変感動し、夕食の料理も13品が出るほどのご馳走でした。お風呂も気持ちよく、疲れを取るには大変良き温泉でした。朝食のバイキングも一味違う心遣いに身も心も休むことが出来、旅の疲れを癒してくれました。共に宿泊した友人も大変満足し、再度訪れることを約束いたしました。
形にとらわれる最近の観光地は、豪華な建物や部屋、周辺の美化に気を遣い本来、お客さんの気持ちを汲むと言う大事なことを忘れ、利益主義に走る処が多い昨今ですが、まれに見る素晴らしいホテルとして大変心が休まりました。
この度の強行旅行は、高野山の素晴らしさに加えて最終のホテルまで、心に残る素晴らしい旅行であったと存じます。事業とは、人対人、常に心を込めた対応こそが、会社発展の礎と強く感じつつも、原点に帰り事業の本質を顧みて心に浸みた次第であります。社長として如何に進むべきかを心に定め、聖地の教えを実行して行きたいと存じております。
同乗した友人(二人)には、感謝を込めて有り難う…と言いたい。
2009年4月30日
今や太陽光発電システィムは、時代の寵児として国を挙げて奨励するエコ商品でありますが、今から30年前は「太陽熱温水器」がこの世に誕生し、省エネルギー商品として脚光を浴び全国各地に普及したのであります。当時は、屋根上にあげた温水器に水を蓄え、太陽熱によってC60°近くまで温めたお湯を使ってお風呂や炊事場の主役として随分重宝したものです。
当社も省力機器のメーカーとして太陽熱温水器揚げ専門リフトメーカーとして、北海道から九州、沖縄まで大々的に販売して参りました。変わったところでは、ハワイ宛にワンコンテナ(40セット)を輸出して、大いに役立せていただきました。韓国や台湾でも計20セットほど輸出され地場で活用されております。
当初、太陽熱温水器揚げ専用リフトは、太陽熱温水器メーカーがほとんど購入して60%を占め、残りは商社のルートを活かした各地への販売でした。私自身、商社の依頼を受けて各地で実演会を催し、展示場でPRしながら温水器メーカーや工事会社に納入したものです。忘れもしません。青森県の大物産展に展示する際、ソーラーリフトを2階の屋根にセットするため、革靴のまま屋根に登ってレールをセットしている時でした。誤ってレールが電線に触れて感電し、体勢を崩して落下しのです。
幸いなことに、立てかけてあった垂直ハシゴに掴まり落下速度を緩るめながら6m下の地面まで落ちたのですが、落ちた私はショックも無く、差ほどの怪我もせずに続けてセッティングをする事ができました。 この時の事を今でも反省すると、ヘルメットの着用もなく、革靴で屋根に登るなど、まったく言語道断な行為と言わざるを得ず、恥ずかしくも貴重な経験として、今でも冷や汗が出る始末です。この経験を基にして、安全で正しい取り扱い方を指導して行く義務があると肝に銘じた次第であります。
商売根性とは見上げたものですね。このあと一生懸命PRして3セットが売れた時は、ケガの功名とでも申しましょうか、真に嬉しく、痛みなど忘れてしまって大いに喜んだものでした。 過去において、たくさんの販売実績で賑わった太陽熱温水器も、今では主客が変わり、太陽光発電システィムが主役となって大変な脚光を浴びつつあります。 性能的には、製品の良質化と軽量化を図り、いまでは高性能な太陽光発電システィムが生まれ、政府と行政の力で20倍以上の実績を目標として、CO2の削減を目指しております。当社も、30年前の太陽熱温水器揚げリフトから大幅に脱却して、太陽光発電システィム専門のリフトメーカーとして、全国に脚光を浴びるに至ったことは、永い歴史を踏まえての事と強く感じる次第です。進化と共にホームページが大きな媒体となった今、時の流れを強く感じるこの頃であります。
2009年4月23日
平成5年6月、韓国釜山(プサン)の取引先に商品説明のために赴いた。その頃の韓国は、発展途上の国でありビルの建設が盛んに行われておりました。空港まで代理店の社長が迎えに来て呉れて市内までの道のりは40分位でした。会社に訪問すると若手の従業員が大勢で出迎えてくれ、真剣に当社製品の説明に耳を傾けて、やる気満々の姿勢が伺えました。説明に辺り、私が韓国語を話せない事もあり、通訳として社長秘書(美しい女性)が、長時間に亘り説明を代行してくれて、無事説明会を終了することが出来ました。
社長の計いもあり、美人秘書が釜山の新開発による名所の地下街を案内してくれる事になり、目映いばかりの素晴らしい商店街を散策させて貰いました。 見学後夕食時となり、釜山で有名な魚河岸に案内していただき生鮮食品のほか、魚・貝類・蛸など至るものを販売しており、その中で食べたい魚や貝を選んでカゴに入れ、魚屋に調理を頼み二階広間で刺身や鍋物をご馳走になりました。中でも、ヒラメ・大えび・ふぐ・あわび・生蛸などは驚くほど新鮮で価格も安く、大変おどろきました。初めて食す蛸をぶつ切りは、口に入れると吸盤が口の中で吸い付いて、なんとも気持ち悪いやら、美味しいやらの驚きで、びっくりいたしました。また、虎ふぐの鍋料理は、日本にはない贅沢な料理法で食し、釜山の魚市場は凄いと感じ入った次第です。帰り道に、お世話に成った秘書の方に、心ばかりのお礼をと思いつつ洋品店で可愛いワンピース(本人希望)を贈らせてもらいました。この女性のは、素晴らしい感性と思いやりがあり、良識に溢れた女性でありました。
翌日、早朝ゴルフの誘いを受けて、ゴルフ支度をしてロビーに出ましたところ、社長はけげんな顔をしておりましたが、時間の都合もありそのままゴルフ場に向かいました。南部の高級ゴルフ場でプレーする人は、皆一流でリッチな人達ばかり、スーツにネクタイ姿で入門しゴルフ姿のままでは決して入場はしない紳士ばかりでした。それらを気遣ってか、社長が何とか取りなしてくださり無事プレー開始に漕ぎ着けたのです。それにもまして驚いた事は、韓国語のわからない私のために美人秘書が、昨日贈ったワンピース姿で現れ18ホール総てを付き添って歩いてくださり、キャディーとの間をとりもって、楽しくプレーを終わらせる事ができました。
私の経験では、スーツにネクタイなどのゴルフ場でプレーするなど今まで経験が無く、高級クラブでのプレーは、大変な驚きであり、恥ずかしくもあり、楽しくもあり、一流気分を充分に味わった醍醐味ある一日でした。夕食の接待として、一流料亭(日本人の出入りがない料亭)に案内され、オンドル完備の部屋でテーブルもなく、床上にビックリするほどのご馳走を並べて、美しいキーセンのお酌で一時を過ごし、釜山の夜を充分に堪能いたしました。
二次会の誘いで釜山一のキャバレーに案内され、有名歌手のお酌を受けながら大変盛り上がり、終盤には、日本から着たお客様に是非一曲とアナウンスがあり、恐る恐るステージに上り、オーケストラを前に韓国名歌「カスマプゲ」を原語で謳い拍手喝采を浴びたことは、一生忘れ得ぬ嬉しい出来事でありました。帰りの時間が遅くなりタクシーが捕まらないために、社長がパトカーを呼び、タクシー変わりにホテルまで送って戴けたことは、忘れるものではありません。
翌日、もともと足の悪い私ですが、ゴルフや寝不足のために左右の関節が痛み余りの痛さにとうとう歩けなくなってしまいました。 迎えに来た社長も、余りのひどさに驚き釜山一番と言われる神社に連れて行かれ祈祷をいたしました。しかしその効も無く、次にスチーム温泉(大きな石を熱して水を掛け蒸気を出すスチームバス)に案内され、ゆっくり暖まって血行を良くして痛みを取る方法を試みましたがこれもダメでした。最後に少々荒療治だが、これなら絶対と言われる療法以外は、痛みを止める事が出来ないと言われ案内されたのです。20畳ばかりの広間で、何も置いて無い場所に男性(アシスタント)2名と女性医師の3名で診察が始まりました。診察するためにパンツだけを着用して裸になってください。何か異様な雰囲気を感じながらも床に仰向けに寝ころびました。医師は、両足の関節を見ながら何かを言っておりましたが言葉がわからず、任せる以外にありませんでした。一人のアシスタントが私の胸の上に乗り、両手で私の両手を上から押さえつけ、もう一人のアシスタントは、腰の上に乗って両足を動かないように押さえつけ医師が剣山(お花をいける時に使う針だらけもの)を痛む関節に何回と無く叩きつけました。その痛さは未だに忘れることが出来ない痛さでした。痛みのためにどれほど暴れても、二人のアシスタントが力まかせに押さえ込んでおり、身動きすら出来ず、涙を流しながら「痛い」「痛い」と泣き叫びました。
女性医師は、「日本人は弱い、韓国人は我慢する…」と言って、痛み止めと称する畳針くらいの太針を溝おちに5cmほど差し込み、左右10本の指にも太い針を刺して痛みを緩和させたのです。医師は左右の足関節に穴を開けてから吹き出る血潮をモーター付の吸引器で吸い上げはじめました。片方の足から200ccづつ両足で400ccの血液を採りました。血液の採取が終わり総ての針を抜いて、アシスタントも身体から下りてくれました。辺りは血だらけで、パンツまで汚れてしまいましたが、驚いたのはその時です。これが私の血かと疑うほどにドス黒いどろどろした血液でした。採取が終り痛みの外に足が大変軽くなった感触も忘れません。このお陰で10年間は、痛み知らずでゴルフを楽しむ事が出来たことは今では感謝しております。現代でも古式豊かな療法が今尚継承している方々が居られる事を、大いに感じ入った次第です。
2009年4月9日
当社は揚げ機のほかに急傾斜地運搬専用モノレールも製造販売するメーカーであり、みかん・梨・りんご・ぶどう・柿・椎茸・わさび等、山間地の運搬用モノレールとして、全国の農協や農機具店に卸し永年に亘り深いつながりを持っておりました。
二十世紀で名高い山陰の鳥取地区や兵庫県香住町と温泉町などは、当社の最も得意とする地盤でありました。 大阪支店長当時京都から国道9号線を下り、最初の訪問先香住町に寄り3時過ぎに温泉町に向かった時のことであります。香住海岸の観光船に乗って海岸の美しさを堪能した三人の女性に出会ったのが温泉町の入り口付近でした。
一人の女性が近づいて来て「今晩泊まるところを探していますが、全く解らないので知っていたら教えて下さい」と頼まれたのです。あたりを見回しますと関東風の女性達で、女子大生の旅行かなと見受けたのです。「すぐ傍に温泉がありますので、乗せていきましょう…」と言って同乗させてあげました。
山陰へ出張の折に何回となく利用している温泉宿では中クラスの旅館で、顔見知りのところ故に、無理も聞いてくれると思い泊まり賃の交渉を致しましたところ「本日は宴会もなく中広間が空いているので、四人様なら半値にしておきます」とのことで、鳥取に向かう予定が一緒に泊まることになりました。
昔から旅は道連れともうしますが、三人の女性は温泉にはいり気分がほぐれた為か、いままでおしとやかに見えた女性達が少しずつ本性を現し、夕食時にはビール大瓶で10本、酒10本と大変な飲みようで大騒ぎとなり、飲めない私にはきついおもいでした。
三人の中に男一人で刺激したためか、浴衣を脱ぎ捨て、ブラジャーとパンティーのみでからまれると、男冥利に尽きると言うか、馬鹿というか、人目には見せられない醜態のドンチャン騒ぎでありました。挙げ句には「お風呂に入ろう…」と三人に手を引かれ女風呂に一緒に入る始末手も足も出ませんでした。
男のスケベ根性が哀れになりました。中広間に四っのフトンが敷かれており、私が寝ているところに、三人一緒で侵入して来て「可愛いいおじさん、私たちが可愛がってあげる…」の始末でありさすがの私も興奮から激怒に変わり「いい加減にしろ」と怒鳴り、その場はなんとか納まって一人で寝ることが出来ました。
女性も、二人まではそこまで崩れませんが、三人になるとこれほどまで変わり、酒が入るともっと原俗的になり、恥も行儀もない醜態を出すものとつくづく感じ入った次第です。
男もこうなると、からっきしだらしがないものと痛感した一夜でした。
2009年3月26日
柳川市で行われた福岡県瓦組合の会合にユニパー瓦揚げ機の宣伝に招集され ご挨拶に清酒2本を持参致しました。
伺うが早いか、「九州の人間は清酒など飲まん」この「2本で焼酎が4本買える。取り替えてくれ」と言われ、関東では焼酎など飲まないのにと思いつつ酒屋に走りました。 会合の議題も終わりに近づき、ユニパーの瓦揚げ機の話題に移りました。 全員で、瓦揚げ機が必要か否か、購入するなら個別に買うか…まとめて購入するかの話題が沸騰し2時間を費やしました。
結果、個人個人で購入することに決まり、10セットほどが契約できました。
2時間遅れの宴会で皆さんのピッチが早く、関東人の私のイビリがはじまりました。
生まれつきアルコールの弱い私にとって酒宴は苦手であり、その上勧められるお酒は、もっと苦しい存在でした。「おーいユニパー ここへ来てお酌せんかい…」「お酌のできん者から、揚げ機など買わん…ぞ」との声に、飲めない酒を飲んでひっくり返ってしまいました。ふと気がつくと宴会場で一人寝ておりました。夕方、慌てて次の訪問地、熊本の人吉方面に向かったのですが、辺りは暗く人家もなく、地理がわからぬ私には不安で進めませんでした。
おそるおそるクルマを進めて2キロほどの処に、古ぼけた“お宿”の看板が目につきました。
助かったー…と、思いつつお宿に向かいました。こんばんは…と、間口に入ると50代とおぼしき女性が一人 「いらっしゃいませ」と迎えて呉れたのは嬉しいが、辺りは暗く、ローソクの明かりが灯っているだけでした。停電かなと思いつつ部屋に案内して戴いたら廊下には各所にランプが下がっているだけ、現代の風景とはかなり掛け離れた有りようでした。
夕食もランプのもとで食しましたが、その折の川魚の塩焼きと山菜の漬け物の美味しさは、今でも忘れる事はできません。夜中のトイレには怖くて目をつぶって行く有り様で、引き戸が古く重たく、便器も2枚の板を渡したトイレであり、今にもお化けが出るのを想像して身が凍る想いでした。
一夜明けて昨晩入らなかった野天風呂を見て驚いたことに、何とも言えない風情と情緒があり、温泉の質もよく素晴らしいお風呂で、ゆったりと心身を休め、昨夜の驚きはどこかへ吹っ飛んでしまいました。
心を込めてつくられた朝食も気持ちよくいただき、女将の優しい人柄に触れ、心も晴れ晴れと次に進めたことは言うに及びません。今の世の中、ランプで生活するのも珍しいが、これにてお宿を営まれるのは、もっと、珍しいことと感じた次第であります。
昭和の時代に江戸時代に戻ったような貴重な経験でしたが、古きものの素晴らしさを味わった一日でした。
2009年3月19日
昭和41年初冬 初代九州営業所をまかされた私は、先ず南の突端から攻めることにして鹿児島方面にポイントをしぼりました。
いすゞライトバン(ディーゼル車)に商品を乗せ、久留米市から9時間かけて鹿児島に到着したのは夕方でした。所持金は10,000円、食事・宿泊・燃料代でした。当時は、宿泊代1,000円、食事代150円、軽油代リットル35円の頃でした。
夕食後クルマのエンジンをかけたら一向にエンジンが始動せず困りました。 バッテリーが消耗して動かないのです。泣きなきバッテリーを交換して動くようになりましたが8,000円の出費で残り僅かとなって心細く、本日中に鹿屋市に入らねばと最終のフェリーで垂水市に渡りました。
火山岩の道筋を抜け、何とか人家のある場所にたどり着いた時は、夜11時過ぎでした。夜も遅く手持ち金も少なくタバコ代しか残らないため、手頃の広場に車を止めてヒーターで暖を採りながら寝ていました。静寂に包まれた夜陰、突然に大声で怒鳴られて目を覚ましました。「真夜中にディーゼル車の音がうるさくて眠れやしない…いい加減にしろ…」と怒ったのは、すぐ目の前のご主人でした。 お金もなく、泊まることも出来ない事情を話しましたら「わかった、ついてこい」と言われて家の中に入れてくださいました。物言わぬ人でしたが優しさがにじみ出ており、暖かいフトンで休ませて戴き、その上、朝食までご馳走になって、しみじみと人の情けと心の暖かさを知りました。
翌日、お金がないために鹿屋市の瓦屋に絶対に買って貰う決意を持ち、商談を進めましところ、当方の意気込みを感じ取って呉れて快く持参した瓦揚げ機を買っていただけました。ありがたく代金を受取りすぐに菓子屋に飛びつけて菓子折を求め昨晩のお礼に伺いました。この時のうれしさは忘れることの出来ない想い出でありました。 帰り道、あちこち訪問しながら大牟田市に着いたのは夜の12時頃でした。
道中、夕食もせずに走り、お腹がすいたのを感じながらも何処にも食堂は開いていないため、大牟田市駅前の屋台で食べることにしました。 駅前屋台でラーメンを注文して待つ間に、屋台のオッサンが「お客さん何処の人ネ…」と聞かれて「横浜から来た」と応えると、安心したような顔をして「お客さん、お願いがあるけんの、聞いてもらえんかいな…」と、頼まれました。
「お客さん、いくらでも良いけんの、この人の身体を買うてば呉れんかいの…」その言葉がすぐには理解できませんでしたが、察するにクルマの中でこの女性抱いて、少しの小遣いをあげてくれと言うことが理解できたのは、ラーメンが出来上がった時でした。理由はわからずとも全くの赤の他人に身体を任すことは、相当の覚悟が有るのではないかと感じつつ、陰に隠れた女性に「お腹は空いておらんですか」と訪ねたら、恥ずかしそうにうなだれました。40歳全般と思える女性にラーメンをご馳走しながら話を聞きましたら、勤めていた飯塚炭坑が閉山し、今は収入がゼロとなり日々食べる事もやっととの事、息子が明日遠方に行くことになり、交通費や食事代を持たせてあげたいという親心に他なりませんでした。この時、昨晩、私が見ず知らずの人にお世話になった事を思い浮かべ所持金の2,000円を持たせてあげました。
もちろん女性には、指一本触れておりません。そんな厳しい時代でしたが、人と人との情けが通じ合う良き時代でもありました。
2009年3月12日
遠い昔のこと、東京オリンピックの開催準備で日本中が沸き立ち、戦後二度目の不況から明日へ向けての活力を得て、国民全体が奮い立ったその時、省力機械のはしりとして瓦を屋根に揚げる機械(瓦あげ機)を造り、全国の瓦屋に買って貰うように走り廻ったのがユニパーの誕生でありました。
横浜を拠点に南は鹿児島まで、北は北海道、新潟や山陰と歩くうちに、北陸金沢市の瓦屋さんの集まりが初めて興味を示して呉れて、組合でまとめて30台購入して呉れたのは忘れもしない歓びでした。
歩けども歩けどもカネのない時代、そんなに高い機械はいらん…と、玄関払い。この頃は職のない時代で、どんなに辛くとも会社を辞める事など考えられずガンバル以外にありませんでした。
良くしたもので「夜の明けぬ朝はない」と言われるように、瓦揚げ機が瓦屋さんにとって無くては成らない必要な機械と認められるようになったのは、数年も掛かりませんでした。
大阪万博に向けて高度経済成長が花開き、マンションを含めた住宅が年間180万戸を超える大変な賑わいで瓦揚げ機が飛ぶように売れてユニパーの基盤を高めたのであります。面白いもので予測もつかない物が世間に迎えられ、絶対に売れると意気込んだ物が売れない時を過ごしつつ、40年以上が過ぎてしまいました。「揚げることが最大のモットー」と心に決め、次から次へと挑戦がはじまりました。これから先いろいろのエピソードがありますが、この続きは次回からに致します。